本校は昭和17(1942)年に、川崎市立川崎高等女学校に改称され、18(1943)年に修業年限が5年制から4年制に変更された。 成人男性のほとんどが兵隊として戦場に赴き、農工業とも働き手がいなくなり、18年6月に学徒動員令が閣議決定され、学徒を対象に産業現場での勤労奉仕が命じられた。これにともない本校でも動員が実施された。明治製菓が最初で、上級生が1週間2回交代で行っていた。下級生は、小向農場に行ったり、防空壕作りをしていた。また、食糧増産として、学校の敷地で、学校農園も作っていた。 19(1944)年になると奉仕期間が長くなり、動員人数も各校に割り当てられるようになった。本校では、明治製菓のほかに帝国通信・昭和電線・東芝小向・トキコなどの会社に配分された。配属先の工場では、製品の包装などの軽作業から、部品のネジを巻いたり、ドリルで金属に穴を開けたり、と、かなりの重労働もあったようで、冬には手にしもやけやあかぎれもできていたようであった。工場によっては女子トイレもないところもあった。服装は、モンペの上に巻ききゃはんをつけ、頭は、髪が機械に巻き込まれないようにずきんをかぶっていた。報酬は日給で1日2円40銭が、各自の貯金帳に入れられていた。 この頃は、翻訳本を読むことが禁止され、画を描く紙にも困るほど物資も乏しくなり、疎開者がふえ、空襲も激しくなっていった。