昭和20(1945)年東京大空襲から約1ヶ月後の4月15日夜の川崎空襲により榎町の校舎が全焼してしまう。焼け跡には、階段だけが残り、調理室あたりには山になった瀬戸物だけが残っていた。このときから、26(1951)年に中島町(現在地)に新校舎ができるまで、転々とした校舎の間借り生活になってしまう。 初めは、20年4月15日から宮前・川中島両国民学校の校舎を借用し分離授業となった。同年7月からは、全校南河原国民学校に移転した。分散していた生徒がまとまることができ、落ち着きを取り戻すに従い、学習意欲は高まっていくが、ノート・えんぴつなどの学用品は不自由であった。そして、8月15日終戦を迎える。この日、間宮仙之助校長が退職し、新川正一校長が就任した。 21(1946)年5月14日に南河原国民学校の校舎の一部が火災にあい、同月27日に大戸国民学校に移転した。ここでは、午前中が小学生、午後が女学生という変則的な生活だった。 終戦後、21年に、修業年限は、戦時中の4年制から5年制に戻された。